罪と罰 第3部 ドストエフスキー

感想の殴り書き

※ネタバレ有

 

ラスコーリニコフは自分以外(母、妹等)に対する意見は概ね的を射ている

プリヘーリヤ(母)は自分の感性(息子に対する恐怖等)を押し殺そうとするあまり、支離滅裂な発言が多分に見られる。

ドゥーニャ(妹)は賢い。兄に自分の本心を見透かされるものの自分の感性(価値観)が、には背いていないような外面を取り繕うことに徹する。実現可能な解決策(妥協点)を模索できるリアリスト。

ラズミーヒンはいいやつだけどずれた世話焼きになってる。知人同士をカップリングして優越感に浸ろうとしている人に近い。ただ、本音はまともなことをいっている(ルージンに対する所感等)。

 

ポルフィーリーとラスコーニリコフの問答

デスノート罪と罰にかなり影響されてそうだなとこの場面では強く感じた。ライトのひと言でいえば中二病的な正義観はラスコーリニコフにそっくり。信仰についての理解がある程度あるラスコーリニコフはある程度の謙虚さ(自分を神とか言わない)があるだけまだまし。それに引き換えLはかなり魅力的なキャラクター。
ラスコーリニコフの「犯罪論」の良心を高次元で実践しているのがプーチン大統領

良心の観点が欠落しているのがユダヤシオニスト(他民族との協調を望むユダヤ人はシオニストの割を食ってしまっている状況がやるせない)

 

個人的に好きなシーン(セリフ)

自己流にでたらめ言うほうが、他人が考えた真実を口まねするより、よっぽどましじゃないですか。前のほうは人間、後のはただの小鳥です!

 

でたらめじゃない!・・・きみにやつらのパンフレット見せてやるよ、それによると、いっさいは「環境にむしばまれた」せいで、それ以外のなにものでもない!お気に入りの文句でね!ここからストレートに、もし社会が正常に組織されれば、すべての犯罪はたちまち消えてなくなる、なにしろ、講義するものがなくなってしまうし、みんないっせいに正しい人間になるわけだから、とくる。そこでは、人間の本性ってのがカウントされてない、本性はそっちのけだ、本性は無視されてるんだ!人類が、歴史の生きた道をその果てまで開拓していけば、やがてひとりでに正常な社会ができあがるってふうには、やつらは考えない、それどころか、社会システムは数学的な知識から生みだされ、それからあっというまに全人類を団結させて、たちまちのうちに、公正で、罪のない社会をつくりあげるっていうんだよ、いっさいの、歴史的な、生きた道のりを通らずにだぞ!だからやつら、本能的に、歴史ってものが大きらいなんだな。「歴史なんて醜悪と愚劣のきわみ」とか言ってね、なんでもかんでも愚劣でかたづけちまうって魂胆さ!そんなわけで、生活の、ほんものの生きたプロセスも嫌ってる、生きてる魂なんていらないってわけ!生きてる魂には生活が必要だ、生きてる魂はメカニズムにしたがわない、生きてる魂は疑りぶかい、生きてる魂は反動的、とくる!ところが、やつらの言う人間ていうのは、少々腐った死体のにおいはするが、ゴムでも作れる。そのかわり、生きていない、意思がない、奴隷とおなじで、逆らわない、で、けっきょくは、フーリエが言い出した共同宿舎のレンガ罪やら、廊下作り、部屋作りにこき使われるだけってわけ!共同宿舎はできましたってわけでね、だけど、宿舎にはいるきみらの本性はまだ準備中です、生活はしたい、でも生活のプロセスはまだ未完成なので、お墓に入るにはまだ早いです、ってわけでね!論理だけつかって、本性を飛びこしていくわけにはいかないよ!論理が想定できるケースは三つでも、本性はそれこそ、数えきれないほどあるってことさ!そういう無数の本性をばっさり切りすてて、一切合財を、快適かどうかの問題に帰着させるんだから!いちばん安易な解決法さ!すばらしくかんたんだよ、考えなくていいんだもんね!肝心なのは、考えなくていいってことだよ!いっさいの人生の秘密がたかが三十ページのパンフレットにおさまっちまう!

どっちもラズミーヒンの台詞、共産主義に対する批判をかなりわかりやすく言っている。現在も共産主義(或いは、共産主義に基づく価値観)は形を変え名前を変え生きている、、、思考停止は極めて危険